〔作曲家について〕
クロード・ドビュッシー
Claude Debussy(1862-1918)フランスの作曲家。パリ近郊サン=ジェルマンに生まれ、11歳でパリ音楽院に入学した。1884年にはカンタータ《放蕩息子》でフランスの作曲家の登竜門ローマ賞を受賞して音楽院を卒業した[1][2]。その結果ローマへ留学をしたが、3年の期限を2年で打ち切り、87年春にはパリにもどった。そして、それまでまったく知らなかった新しい芸術的空気を吸収するようになった[1]。例えば、88年と翌年にはワーグナーの音楽に夢中になりバイロイトに出かける。パリ万国博覧会でジャワのガムラン音楽やベトナムの演劇に触れた。さらにロシアの作曲家ムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》などの影響を受け、独自の音楽様式を確立した。印象派の詩人マラルメのサロンに足を運び、画家ドニやルドンらと交流した。94年マラルメの詩の夢幻的な印象を音楽にした《牧神の午後への前奏曲》で音色を楽曲の構成要素にまで高めた[2]。99年リリー・テクシエと結婚。歌曲集《ビリティスの歌》や管弦楽のための《夜想曲》を完成させた。そして評論活動を開始した。1902年メーテルリンクの象徴主義的な戯曲を台本にしたオペラ《ペレアスとメリザンド》の初演で成功を収め、作曲家としての地位を確立した。新たなオペラの構想を練る一方でピアノ曲を集中的に書いた。管弦楽《海》を作曲。04年エンマ・バルダック夫人と一緒に暮らすようになる。リリー自殺未遂。05年再婚。娘クロード=エンマ誕生。《子供の領分》は娘エンマに捧げられた。印象派に分類されることを終生拒んだ[2]。ドビュッシーの音楽は、どれも感覚的である[1]。古典的形式は解体され、伝統的な和声法は教会旋法や5音音階や全音音階なとで回避された。響きを重視し、磨かれた管弦楽法や多様なリズムが用いられた。(柴辻)[2]
15年に癌の手術を受けたが、次第に病状が進み、18年3月ドイツ軍攻撃下のパリで死んだ[1]。享年56歳であった。
キーワード
【生涯】
革新者 (20世紀音楽)
バイロイト詣 (ワーグナー)
印象主義
象徴主義
アイロニー
評論活動 (クロシェ、架空の人物)
【その他】
ローマ大賞
パリ万博 (ガムラン音楽)
葛飾北斎 (浮世絵《海》)
「フランスの作曲家」
【演奏】
ブーレーズ (指揮)
ギーゼキング (ピアノ)
ミケランジェリ (ピアノ)[3]
[1]昭和出版研究所編集『日本百科大事典10』小学館, 1964, 353頁
[2] 渡辺和彦監修『検索キーワード付 クラシック作曲家事典』アルク出版企画, 2007, 153頁
[3]渡辺和彦監修『検索キーワード付 クラシック作曲家事典』アルク出版企画, 2007, 154頁
〔参考サイト〕
Claude Debussy
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Claude_Debussy
〔作品について〕
ピティナ・ピアノ曲事典
ドビュッシー :ボヘミア風舞曲
Debussy, Claude Achille:Danse bohémienne L.9 (1880作曲)
楽器編成:ピアノ独奏曲
https://enc.piano.or.jp/musics/106
〔選 曲〕
ボヘミアの踊り
(C.ドビュッシー作曲)
ヤマハピアノ教室
ピアノスタディ 6
著者 ヤマハ音楽振興会 編著
出版者 ヤマハ音楽振興会
出版年 1996.12.10
選曲ページ PP 4-5
* ソルフェージュの曲としてニ短調16小節にアレンジ。原曲はロ短調。
[楽譜画像]
ヤマハピアノ教室
ピアノスタディ 6
著者 ヤマハ音楽振興会 編著
出版者 ヤマハ音楽振興会
出版年 1996.12.10 (初版)
大きさ、ページ 31cm, 71p
NDC -
https://www.instagram.com/p/C6fiCbqS4Xy/?igsh=MWdrejg5cTFobnVyaA==
〔参考URL, 参考文献〕
ボヘミアはチェコ共和国の地域のひとつです。北はポーランド、西はドイツ、南はオーストリア、東はチェコのモラヴィア州と接しています。首都プラハはボヘミアにあります。
ボヘミアはガラス製品やその他の手工芸品、ビール、料理でよく知られています[4] 。
[4]引用サイト:https://simple.m.wikipedia.org/wiki/Bohemia
国立国会図書館
「ドビュッシー」
「ボヘミアン」
〔YouTube〕
Debussy, Claude Achille:Danse bohémienne L.9 (1880作曲)
Classical Gems channel
https://youtu.be/JnPYAu8v5wM?feature=shared