🎹 作曲家のはなし 2 バッハ その1 Y.P ピアノスタディ7 P34〔10. J.S.バッハ 1728年 (43歳)〕

〔編集者より〕 

1728年バッハが、43歳の年から1746年61歳の頃まで、聖職者会議との争いがありました。ヤマハピアノスタディ7, 34頁の中の一行程の文はバッハの人生の18年間程を含んでました。それを尾山真弓編のJ・S・バッハから書き出すのにかなりの時間を費やしました。その争いについての事は、検索しても答えが見出せなかったのでGeminiにきき、とても参考になる回答を得る事ができました。この投稿にコピーペーストをさせて頂いております。是非、お読みください。(浅田美鈴)

            🔹🔹🔹🔹🔹

5-1. ケーテンで6年間を過ごしたバッハは、ライプツィヒの聖トーマス教会へ移ります [1]。

6. 1724年 (39歳) 6-1〜6-4まで

7. 1725年 (40歳) 7-1〜7-6まで

8. 1726年 (41歳)

9. 1727年 (42歳)『マタイ受難曲』尾山

10.1728年 (43歳)

11.1729年 (44歳)『マタイ受難曲』ヤマハ


5-1から5-10までがライプツィヒの聖トーマス教会に関連する事項で

ヤマハのスタディ7では1729年(44歳)が『マタイ受難曲』の作曲年[1]と記載されていますが、樋口隆一著『バッハ』内のJ・S・バッハ年譜(尾山真弓編)では1727年(42歳)に『マタイ受難曲』を初演?と記載されていることであるが当ブログでは、1724年(39歳)を6、1725年(40歳)を7、1726年(41歳)を8、1727年(42歳)を9、1728年(43歳)を10、1729年(44歳)を11とします。

*Netherlands Bach Society の 

St John Passion の YouTubeは

1725 versionとなっていました。


*ヤマハピアノスタディ7,34頁(音楽的対立まあり)に含まれるところは、10.1728(43歳)〜28.1746(61歳)

になります。


1729年には「マタイ受難曲」が生まれているが、1728年(43歳)より音楽的対立が起こる[1]。

(この対立は、尾山真弓編「J・S・バッハ年譜」によると、1728-1737(52歳)まで続く。その後、1745年に第二次シレジア戦争、そして1746(61歳)W.F.バッハがドレスデンを去るところまでが含まれている) 

*1747(61歳)ポツダムでフリードリヒ2世の宮廷を訪問したところから1749(64歳)までが現役で(ヤマハピアノスタディの次の文節)

1750(65歳)視力が衰え、病に伏し、その生涯を閉じるところでバッハその1, 34頁がおわる。[1]


              🔹🔹🔹🔹🔹

10.1728(43歳) 💢

11.1729(44歳)11-1〜11-4

12.1730(45歳)12-1〜12-4 💢

13.1731(46歳)13-1〜13-2

14.1732(47歳)14-1〜14-2

15.1733(48歳)15-1〜15-2

16.1734(49歳)16-1〜16-4

17.1735(50歳)17-1〜17-4

18.1736(51歳)18-1〜18-3 💢

19.1737(52歳)19-1〜19-2 💢

20.1738(53歳)特記事項がない。

21.1739(54歳)21-1〜21-2

22.1740(55歳)特記事項がない。

23.1741(56歳)

24.1742(57歳)24-1〜24-2

25.1743(58歳)特記事項なし。(14のカノン) No. 1. Canon simplex/No. 2. All' roverscio/No. 3. Beede vorigen Canones zugleich, motu recto e contrario

26.1744(59歳)特記事項なし。(14のカノン)No. 4. Motu contrario e recto/No. 5. Canon duplex a 4/No. 6. Canon simplex uber besagtes Fundament a 3

27.1745(60歳)(14のカノン)

No. 7. Idem a 3/No. 8. Canon simplex a 3, il soggetto in Alto/No. 9. Canon in unissono post semifusam a 3/No. 10. Alio modo, per syncopationes et per ligaturas a 2 - Evolutio

28.1746(61歳)(14のカノン) No. 11. Canon duplex ubers Fundament a

/No. 12. Canon duplex uber besagte Fundamental - Noten a 5/No. 13. Canon triplex a 6

30./No. 14. Canon a 4 per Augmentationem et Diminutionem

29.

https://ml.naxos.jp/work/6070066

29.

「この時期には音楽的対立もあり…(ヤマハピアノスタディ7, 34頁)は」ここまでになります。


J・S・バッハ年譜

(尾山真弓編)より[2]


10. 1728

        (43歳)


9月 聖職会議との対立が始まる。


Geminiへの質問

バッハが対立していた

聖職会議について教えて下さい。

Gemini回答

1723年から1750年の間、バッハはトーマス教会のカントルとして、教会音楽の監督を務めていました。

バッハの音楽家としての生活は、決して平坦なものではありませんでした。特に、1729年から1730年にかけての2年間は、バッハにとって非常に困難な時期でした。

バッハは、聖職者会議との間に、音楽の形式や内容に関して意見の衝突がありました。バッハの音楽は、伝統的な教会音楽の形式にとらわれず、より自由で表現力豊かなものでした。しかし、聖職者会議の一部は、バッハの音楽が伝統的な形式から逸脱していることを問題視していました。

また、当時のライプツィヒの教会音楽は、典礼の場における音楽の役割を重要視していました。音楽は、神への賛美と祈りを深めるための手段とされていました。しかし、バッハの音楽は、単なる典礼の道具ではなく、芸術作品としての価値も追求していました。この点も、聖職者会議との意見の相違を生む原因となっていました。

さらに、バッハの音楽に対する評価も、聖職者会議の間で分かれていました。バッハの才能を高く評価する人々がいる一方で、彼の音楽が難解で理解しにくいと批判する人々もいました。

これらの要因が複合的に絡み合い、バッハと聖職者会議との間に深刻な対立を生み出しました。バッハは、自身の音楽の自由な表現と芸術性を守るために、聖職者会議との交渉や説得を重ねました。しかし、聖職者会議の一部は、伝統的な教会音楽の形式を固守しようとしたため、両者の溝はなかなか埋まりませんでした。

この対立は、バッハの音楽活動に大きな影響を与えました。バッハは、聖職者会議の意向を尊重しながらも、自身の音楽の創造性を追求する必要がありました。その結果、バッハの作品には、伝統的な教会音楽の形式を踏襲しながらも、彼独自の音楽語法や表現が織り込まれるようになりました。

1750年にバッハが亡くなった後も、彼の音楽はしばらくの間、人々に忘れ去られていました。しかし、19世紀に入り、メンデルスゾーンなどの音楽家によってバッハの作品が再評価され、彼の音楽は再び注目を浴びるようになりました。

現在では、バッハは西洋音楽の父として、世界中の人々に愛されています。彼の音楽は、教会音楽の枠を超えて、芸術作品としての高い評価を受けています。

バッハと聖職者会議との対立は、彼の音楽家としてのキャリアにおいて、大きな試練でした。しかし、この対立を乗り越える中で、バッハは自身の音楽をさらに深化させ、後世に多大な影響を与える作品を生み出したと言えるでしょう。

https://gemini.google.com/app?hl=ja 


〔この時期、バッハが担当していた教会のひとつ〕

Die Matthäikirche (so 1876)

1699 Neue Kirche


ヨハン・セバスチャン・バッハはトーマスカンター(1723年 - 1750年)在任中、新教会の教会音楽も担当していました。

https://de.wikipedia.org/wiki/Matth%C3%A4ikirche_(Leipzig)


*バッハはライプツィヒ時代(1723–1750)に4つの教会を担当していました。


🔹聖トーマス教会

🔹聖ニコラス教会

🔸聖ペテロ教会

🔸新教会


【ライプツィヒ(1723–1750)】

1723年5月30日にニコライ教会で就任式が行われ、バッハはライプツィヒでトーマスカンターとして奉仕し始めた。彼は1750年に亡くなるまでこの地位を保持した。彼はカントル兼音楽監督として、市内の2つの主要教会である聖トーマス教会と聖ニコラス教会、そして聖ペテロ教会と新教会の4つの教会の音楽を担当していました。

https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_Sebastian_Bach#Leipzig_(1723%E2%80%931750)


【画像の説明】

写真家

ロジャー・ロッシング (1929–2006) ウィキデータ:Q622940

レナーテ・ロッシング (1929–2005) ウィキデータ:Q622945

元のキャプション

ドイツ・フォトテクによる元の画像の説明

マタイ教会跡

描かれた場所 ライプツィヒ マータイ教会(新教会)ドイツ

日付 1948

コレクション ドイツフォトテーク ウィキデータ:Q655507

受入番号 df_roe-neg_0000535_002

ソース ドイツフォトテーク

ドイツ・フォトテクの詳細情報

ライセンス

 このファイルは、ザクセン州立図書館/ドレスデン州立大学図書館 (SLUB) のDeutsche Fotothekから協力プロジェクトの一環としてウィキメディア コモンズに提供されました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fotothek_df_roe-neg_0000535_002_Ruine_der_Matth%C3%A4ikirche.jpg


マタイ教会跡
描かれた場所 ライプツィヒ マータイ教会
(新教会)ドイツ
日付 1948
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Fotothek_df_roe-neg_0000535_002_Ruine_der_Matth
%C3%A4ikirche.jpg


〔YouTube〕

Glenn Gould rehearsing Johann Sebastian Bach's Partita No. 2 in C-minor BWV 826 (1958)

Glenn Gould channel

https://youtu.be/WqwZC-yLYI4?feature=shared



🎹 貴重ビデオです。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️


Johann Sebastian Bach (1685-1750)

Partita No. 2 in C minor, BWV 826

Deucalion Project channel

https://youtu.be/NYJgygdnbdU?feature=shared



(00:05​) 1. Sinfonia

(04:18​) 2. Allemande

(07:33​) 3. Courante

(09:23​) 4. Sarabande

(11:58​) 5. Rondeaux

(13:35​) 6. Capriccio


Glenn Herbert Gould (1932-1982), Piano

Rec. 22-23 June 1959


🎹 このNo.2はパルティータの中で一番好きです。Gouldは繰り返しをしたりしなかったりしていることにこれもGouldのアートなのかと思いました。Gouldのバッハを聴くとその曲を弾いてみたくなります。この曲は音楽学部の時に友人がとても上手に素敵に弾いていたのを覚えています。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️(浅田美鈴)


J・S・バッハ 作品表 [2]

1728(43歳)


教会カンタータ

BWV 117 至高の善に讃美と栄光あれ (1728-31頃) 

讃美と栄光 至高の善なる者にあれ 1728-1731 不明   

Sei Lob und Ehr dem höchsten Gut


BWV 146 神よ、人はひそかに汝を誉め (1726-28頃)

われらは多くの患難を経て 1726, 5/12? 復活節後第3日曜日   

Wir müssen durch viel trübsal


BWV 149 人は喜びて勝利の歌をうたう (1728-29)

喜びと勝利の歌声は 1729, 9/29? 大天使ミカエルの祝日   

Man singet mit Freuden vom Sieg


BWV 188 われ信頼を寄せり (1728頃)

われはわが依り頼みを 1728,10/17?or1729,11/ 6? 三位一体節後第21日曜日   

Ich habe meine Zuversicht


BWV 197a いと高きところの神に栄光あれ (1728頃)

神はわれらの確き望みなり 1736/1737頃 結婚式     

Gott ist unsre Zuversicht


世俗カンタータ

BWV 216  楽しきプライセの町 (1728)

BWV 216a  選ばれしプライセの町 (1728)


モテト  なし

 

ミサ曲・マニフィカト 他

BWV 243 マニフィカト (1723=変ホ長調の第1稿、1728-31=ニ長調の第2稿)


受難曲・オラトリオ  なし


コラール・歌曲  

BWV 508-518 《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》からのコラールとアリア (BWV 511-513, 518とBWV 515の通奏低音のみバッハ、1725-1740年代)


オルガン曲

BWV 544 前奏曲とフーガ ロ短調 (1727-31)

BWV 548 前奏曲とフーガ ホ短調 (1727-31)


クラヴィーア曲 

BWV 825-830 6つのパルティータ (1726-31出版) 


リュート曲

BWV 995 リュート組曲 ト短調

 (1727-31)


室内楽曲  なし


協奏曲・管弦楽曲  なし


カノンなどの対位法的作品  なし


〔参考WEBサイト〕

Johann Sebastian Bach

https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Sebastian_Bach

これは 16 世紀から現在までのオラトリオの年代順リストです。

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_oratorios

教会カンタータ一覧表(付世俗カンタータ)

http://www.kantate.info/bachcantata.htm

Leipzig

https://en.wikipedia.org/wiki/Leipzig

トーマスカントル(聖トーマスのカントル)は、ライプツィヒで創設され、現在では国際的に知られる少年合唱団であるトーマス合唱団の音楽監督の通称である。

https://en.wikipedia.org/wiki/Thomaskantor

Kantate

https://de.wikipedia.org/wiki/Kantate


〔参考文献〕

[1]ヤマハ音楽振興会 編著『ヤマハピアノ教室 ピアノスタディ 7』ヤマハ音楽振興会, 1996, 34頁

[2]樋口隆一『バッハ➖️カラー版作曲家の生涯➖️』新潮社, 1987



[楽譜画像]


ヤマハピアノ教室

ピアノスタディ 7


著者 ヤマハ音楽振興会 編著

出版者 ヤマハ音楽振興会

出版年 1996.12.10 (初版)

大きさ、ページ 31cm, 71p

NDC -

https://www.instagram.com/p/C6lWHZSSRUH/?igsh=MWlhcHpwY2IwZ2U2bw==


(浅田ピアノ教室 浅田美鈴)

https://www.youtube.com/@ASADAMisuzu