🎹 作曲家のはなし 3 シューベルト Y.P ピアノスタディ7 P37〔1-4. シューベルト 1797-1828 [Austria;Wien]14歳 - 16歳 コンヴィクトを卒業。第1交響曲を作曲〕

『ヤマハピアノ教室 ピアノスタディ 7』37頁では、10行にわたってシューベルトについての概要が記載されています。


1-2行目: シューベルトの作品の概要

3行目: 8 歳の頃の音楽的教育環境について

3行目-8行目: 11歳から16歳頃まで

8行目-20行目: 18歳の頃のシューベルトの作品について [1]


[幼少期と教育]

フランツ・ペーター・シューベルトは、1797年1月31日、オーストリア大公国ウィーンのヒンメルプフォルトグルント(現在はアルザーグルントの一部)に生まれ、翌日カトリック教会で洗礼を受けた。彼は、フランツ・テオドール・フローリアン・シューベルト(1763年 - 1830年)とマリア・エリザベート・カタリーナ・フィーツ(1756年 - 1812年)の12番目の子供であった。シューベルトの直系の先祖は、もともとオーストリア・シレジアのツックマンテル州から来た。彼の父はモラヴィアの農民の息子で、よく知られた教区の教師で、リヒテンタール(ウィーン第9区)の学校には多くの生徒が通っていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Franz_Schubert [WEB: 1]


YAMAHA: 14歳から16歳まで

*11歳は1-2.と重複しています。

◻️シューベルト小伝記◻️[6]+[1][2][3][4][5]

1808 (11歳) 10月 コンヴィクトの補欠試験に合格 [6]


1811 (14歳) 神学校 コンヴィクトでの成績不振のため父の怒りをかい家の出入りを禁じられる。

(同年から歌曲作曲家としてスタート[4])


*コンヴィクトというのは、StudienhausのKonvikt(神学校) を

意味する。 

https://de.wikipedia.org/wiki/Konvikt [WEB: 2]

神学校では、普通教育と音楽教育の初歩を受けた。[4][5] 音楽教育なついてはサリエリ*などの一流の指導者たちに基礎教育を受け、[2][3][4][5] 児童合唱団 (ウィーン宮廷少年合唱団*)に入り、教会で歌っていた。[3][4]


* Antonio Salieri アントニオ・サリエリ(1750年8月18日 - 1825年5月7日)は、イタリアの古典派音楽の作曲家、教師であった。[ 4 ]彼はヴェネツィア共和国のヴェローナ南部のレニャーゴに生まれ、成人してからはハプスブルク家の臣民として生涯を過ごした。

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_Salieri [WEB: 3]


* ウィーン少年合唱団(ドイツ語:Wiener Sängerknaben )は、オーストリア・ウィーンを拠点とするボーイソプラノとボーイアルトからなる合唱団です。世界で最も有名な少年合唱団の一つです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Vienna_Boys%27_Choir [WEB: 4]


1812年 (15歳) 母死去。アムゼルム・ヒュッテン・ブレンナー*と知り合う。


* Anselm Hüttenbrenner

アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794年10月13日 - 1868年6月5日)はオーストリアの作曲家。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(死去時に彼のベッドサイドにいたことが知られている二人のうちの一人)とフランツ・シューベルトの双方と親交が深かった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Anselm_H%C3%BCttenbrenner [WEB: 7]


1813 (16歳) コンヴィクトを卒業。n3 第1交響曲を作曲した。n1, n2, n6. n7, [6][3][5]

【補足】

*〔Y.P7 37頁〕16歳の頃、シューベルトはこの神学校 (コンヴィクト)を離れていくこととなったが、離れた (卒業した) 後も作曲のレッスンには通っていた。[1]


* 変声期とともにシューベルトはコンヴィクトを離れた。[2]


n1. 初期交響曲は、この生徒オーケストラで初演された可能性が高い。[3]


n2. シューベルトは、稀に見る程、豊かで溢れ出すような楽想の持ち主だけに、コンヴィクトで体系的な音楽教育を受けなかったことが、彼の楽想を伸びやかに発展させることとなった。[4]


n3. 1813年にシューベルトはコンヴィクトを去り、徴兵を避けるために2年間教員養成所に通った。[5]


n7. シューベルトは9曲程の交響曲を作曲している。[4]


*コンヴィクト(Konvikt)での音楽教育は、学術的で体系的なものではなかったが豊富な資質を保有していて、シューベルトは14歳で歌曲を書いた。[4]


〔参考文献〕

[1]ヤマハ音楽振興会 編著『ヤマハピアノ教室 ピアノスタディ 7』ヤマハ音楽振興会, 1996, 37頁

[2]菊本哲也『新しい音楽通論』全音楽譜出版社, 1975, 427頁

[3]渡辺和彦監修『検索キーワード付き クラシック作曲家事典』学習研究社, 2007, P103

[4]門馬直美『西洋音楽史概説』春秋社, 1976, P177, P178, P180

[5]昭和出版研究所 編 (辻 壮一 著)『日本百科大事典 7』小学館, 1963, 245頁

[6]世界名曲全集 1『運命/未完成交響曲: かく扉をたたく・・・』小学館, 1973, 16頁


〔参考WEBサイト〕

[WEB: 1]

https://en.wikipedia.org/wiki/Franz_Schubert 

[WEB: 2]

https://de.wikipedia.org/wiki/Konvikt

[WEB: 3] 

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_Salieri

[WEB: 4]

https://en.wikipedia.org/wiki/Vienna_Boys%27_Choir

[WEB: 5]

https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Haydn

[WEB: 6]

https://en.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Amadeus_Mozart?variant=zh-cn

[WEB: 7]

https://en.wikipedia.org/wiki/Anselm_H%C3%BCttenbrenner


【画像の説明】

パッサウの航空写真。旧市街とイン川、ドナウ川、イルツ川の合流点(左から右)が写っている。

ドイツ語: Luftbild von Passau, das die Altstadt sowie den Zusammenfluss des Inns, der Donau und der Ilz (von links nach rechts) zeigt

日付  2021年5月9日 13時25分46秒

ソース  自分の作品

著者  カーステン・シュテガー

カメラの位置 北緯48度34分19.78秒、東経13度29分53.23秒 方位=270° OpenStreetMap に基づいた Kartographer マップ。 この画像とその他の近くの画像をOpenStreetMapで見る 情報

オブジェクトの位置 北緯48度34分27.06秒、東経13度28分18.34秒 

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Aerial_image_of_Passau.jpg

https://en.wikipedia.org/wiki/Danube


パッサウの航空写真。旧市街とイン川、
ドナウ川、イルツ川の合流点(左から右)が
写っている。 
著者  カーステン・シュテガー
https://en.wikipedia.org/wiki/
File:Aerial_image_of_Passau.jpg


[楽譜画像]


ヤマハピアノ教室

ピアノスタディ 7


著者 ヤマハ音楽振興会 編著

出版者 ヤマハ音楽振興会

出版年 1996.12.10 (初版)

大きさ、ページ 31cm, 71p

NDC -

https://www.instagram.com/p/C6lWHZSSRUH/?igsh=MWlhcHpwY2IwZ2U2bw==


(浅田ピアノ教室 浅田美鈴)

https://www.youtube.com/@ASADAMisuzu