〔編集者より〕
1728年バッハが、43歳の年から1746年61歳の頃まで、聖職者会議との争いがありました。ヤマハピアノスタディ7, 34頁の中の一行程の文はバッハの人生の18年間程を含んでました。以下はコチラへ
〔詳細は↓〕
https://asadamisuzumusicblog.blogspot.com/2025/02/2-1-yp-7-p3410-js-1728-43.html
🔹🔹🔹🔹🔹
J・S・バッハ年譜
(尾山真弓編)より[2]
19-2. 1737
(52歳)
5月 Johann Adolf Scheibe
J.A.シャイべが最初のバッハ批判を発表した。
*「1736年、彼はハンブルクに移り、」と下記Wikipediaには記載されているので、ハンブルクからの批判と思われます。J.A.シャイべは
雑誌を出版しているようです。
⏩️ コレですね。
1740年にかけて雑誌
「Der Critische Musikus」を出版した。この雑誌は広く注目を集め、重要な同時代の作曲家について論じていることで今日でも重要な意味を持っている。
この雑誌に収載したのではなさそうです。批判をしたのは1737年とありますので。
AIにきいてみます。
→Geminiが生成してくれました。
浅田美鈴からのGeminiへの質問
おはようございます
Geminiさん
以下の質問です。
19-2. 1737
(52歳)
5月 Johann Adolf Scheibe
J.A.シャイべが最初のバッハ批判を発表した。
とありますが
シャイべが彼の雑誌を
出版したのは1740年となってますので、何処で発表したか
特定ができますか?
引用元「Google AI Geminiによる情報」回答
J.A.シャイベがバッハ批判を最初に発表した場所についてですね。
J.A.シャイベがバッハ批判を発表した場所は、以下の通りです。
* 1737年:
* 最初の批判は、匿名で「Critischer Musikus(批判的音楽家)」という雑誌に掲載されました。この雑誌は1737年に創刊され、シャイベ自身が編集・発行していました。
* 1740年:
* 1740年に、シャイベは自身の雑誌「Der Critische Musikus(批判的音楽家)」を創刊し、そこでバッハの音楽に関する批判を本格的に展開しました。
したがって、最初のバッハ批判は1737年に「Critischer Musikus」で発表され、その後1740年に自身の雑誌でさらに詳細な批判を行った、というのが正確な情報となります。
シャイベによるバッハ批判は、当時の音楽界に大きな議論を巻き起こし、バッハの音楽に対する評価に影響を与えました。
参考資料
* ヨハン・アドルフ・シャイベ - Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%99
* J.A.シャイベ - 古典派シンフォニー百花繚乱:https://kotenha.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%B4%BE%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%83%BC/j-a-%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%99/
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Johann Adolf Scheibe
ヨハン・アドルフ・シャイベは、オルガン製作者ヨハン・シャイベ(1675年頃 - 1748年)の息子としてライプツィヒに生まれ、6歳で鍵盤楽器のレッスンを始めた。1725年、ライプツィヒ大学で法律と哲学を学び始め、その過程で修辞学と詩の教授であるヨハン・クリストフ・ゴットシェッドに出会い、その美学理論はシャイベに深い影響を与えた。ゴットシェッドの著作は主にドイツの詩と演劇の改革を目指したもので、シャイベの音楽哲学の形成に大きく影響した。
経済的な困難のため、シャイベは大学を修了することができず、その代わりに独学で音楽の道に進みました。1729年に、ヨハン・セバスチャン・バッハがカントルを務めていたライプツィヒの聖トーマス教会のオルガン奏者の職に応募しましたが、不合格でした。シャイベは1735年までライプツィヒの音楽界で活躍しました。
1736年、彼はハンブルクに移り、そこでヨハン・マテゾンやゲオルク・フィリップ・テレマンなどの有力な友人を得た。
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Adolf_Scheibe
【画像の説明】
1739年、シャイべはデンマーク国王クリスチャン6世の宮廷楽長となった。シャイベは急速にコペンハーゲンで最も重要な音楽家となった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Adolf_Scheibe
説明
デンマーク、コペンハーゲンのマルモルキルケン(大理石の教会)。アマリエンボー宮殿から見たところ。
日付 2006年5月4日
ソース自分の作品
著者 イブ・ラスムッセン
許可 (このファイルの再利用)
パブリックドメイン
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marmorkirken_Copenhagen_seen_from_Amalienborg_(cropped).jpg
〔YouTube〕
Johann Adolf Scheibe - Sinfonia á 16 in D - major
KuhlauDilfeng5 channel
https://youtu.be/KB4OF8iOZp8?feature=shared
🎹 高貴な感じが曲全体に醸し出されているSinfoniaでした。
バッハを批判した音楽家だけあり
マルチン・ルターの教えにそった一般大衆でもわかる音楽にという教えに忠実な楽曲と思いました。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ (浅田美鈴)
浅田美鈴からのGeminiへの質問
先程のシャイべがバッハの音楽を何故批判したかと考えてみたのですが、バッハは聖職者会議からも
その音楽が難しいと言われてましたこともGeminiさんに
前に生成して頂きました。
思うに
マルチン・ルターの教えにそった一般大衆でもわかる音楽
これにバッハの曲は当てはまらなかった。とシャイべの曲をきいて思ったのですがマルチン・ルターのその教えの根拠となるデータはお持ちですか?
引用元「Google AI Geminiによる情報」回答
バッハの音楽に対するシャイベの批判の背景には、当時の音楽観の変化と、マルティン・ルターの宗教改革が深く関わっています。
マルティン・ルターの音楽観
マルティン・ルターは、宗教改革において音楽を非常に重要な要素と位置づけました。ルターの音楽観の要点は以下の通りです。
* 会衆賛美の重視:
* ルターは、一般の人々が共に歌う会衆賛美を重視し、ドイツ語による賛美歌(コラール)を数多く作詞・作曲しました。
* これは、ラテン語による複雑な聖歌が中心であったカトリック教会との大きな違いであり、一般の人々が直接的に宗教に参加することを促すものでした。
* 音楽の平易さ:
* ルターは、音楽が一般の人々にも理解しやすいものであるべきだと考えました。そのため、複雑な対位法よりも、旋律が明確で歌いやすい音楽を重視しました。
* 音楽の教育的価値:
* ルターは、音楽が人々の信仰を深め、道徳心を養うための重要な手段であると考えました。そのため、学校教育においても音楽を重視しました。
バッハの音楽とルターの音楽観
バッハは、ルターの音楽観を受け継ぎ、教会音楽の発展に大きく貢献しました。しかし、バッハの音楽は、ルターの時代からさらに発展し、高度な技術と複雑な構成を持つようになりました。
* 高度な対位法:
* バッハは、対位法という複数の旋律を組み合わせる技法を駆使し、複雑で豊かな音楽を生み出しました。
* この高度な対位法は、一般の人々には理解しにくい側面もありました。
* 複雑な構成:
* バッハの教会音楽は、単なる賛美歌にとどまらず、聖書の物語や教義を音楽的に表現する壮大な構成を持つものが多くありました。
* この複雑な構成も、一般の人々には理解しにくい要因となりました。
シャイベの批判
シャイベは、当時の新しい音楽の美学、つまり啓蒙主義的な考え方に基づいてバッハの音楽を批判しました。
* 自然さの欠如:
* シャイベは、バッハの音楽が過剰な技巧に走り、自然さを欠いていると批判しました。
* これは、ルターが重視した音楽の平易さとは対照的な考え方です。
* 複雑さへの批判:
* シャイベは、バッハの音楽の複雑さが、聴衆の理解を妨げると批判しました。
* これも、ルターが重視した音楽の平易さとは対照的な考え方です。
つまり、シャイベの批判の背景には、ルターの宗教改革によって生まれた「平易で理解しやすい音楽」という考え方と、当時の新しい音楽の美学との間のギャップがあったと考えられます。
参考資料
* J.S.バッハBach | History of music:https://history-of-music.com/johann-sebastian-bach
* バッハの生涯と主要作品 - ONTOMO:https://ontomo-mag.com/article/column/bach-life-works/
これらの情報を踏まえ、バッハとルター、そしてシャイベの関係について、さらに深く考察していただければ幸いです。
Gemini先生ありがとうございます😊🙏
J・S・バッハ 作品表 [2]
教会カンタータ なし
世俗カンタータ
BWV 30a 楽しきヴィーデウラ (1737)
モテト
BWV 118 おお、イエス・キリスト、わが命の光 (1736 - 37)
ミサ曲・マニフィカト 他 なし
受難曲・オラトリオ なし
コラール・歌曲
BWV 508-518《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》からのコラールとアリア (BWV 511-513, 518とBWV 515の通奏低音のみバッハ、1725-1740年代)
オルガン曲 なし
リュート曲
BWV 997 パルティータ ハ短調 (1737 - 41)
室内楽曲 なし
協奏曲・管弦楽曲
BWV 1052 チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 (1735-40)
https://asadamisuzuxposts.blogspot.com/2025/03/2-1-yp-7-p3417-3-js-1735-50.html
BWV 1053 チェンバロ協奏曲第2番 ホ長調 (1735-40)
BWV 1054 チェンバロ協奏曲第3番 ニ長調 (1735-40)
BWV 1055 チェンバロ協奏曲第4番 イ長調 (1735-40)
BWV 1056 チェンバロ協奏曲第5番 へ短調 (1735-40)
BWV 1057 チェンバロ協奏曲第6番 ヘ長調 (1735-40)
BWV 1058 チェンバロ協奏曲第7番 ト短調 (1735-40)
BWV 1060 2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 (1735-40)
BWV 1061 2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 (1735-40)
BWV 1062 2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 (1735-40)
BWV 1063 3台のチェンバロのための協奏曲 ニ短調 (1735-40)
BWV 1064 3台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 (1735-40)
BWV 1063 4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 (1735-40)
カノンなどの対位法的作品 なし
〔参考WEBサイト〕
Johann Sebastian Bach
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Sebastian_Bach
Bach family
https://en.wikipedia.org/wiki/Bach_family
これは 16 世紀から現在までのオラトリオの年代順リストです。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_oratorios
教会カンタータ一覧表(付世俗カンタータ)
http://www.kantate.info/bachcantata.htm
Leipzig
https://en.wikipedia.org/wiki/Leipzig
トーマスカントル(聖トーマスのカントル)は、ライプツィヒで創設され、現在では国際的に知られる少年合唱団であるトーマス合唱団の音楽監督の通称である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomaskantor
Kantate
https://de.wikipedia.org/wiki/Kantate
〔参考文献〕
[1]ヤマハ音楽振興会 編著『ヤマハピアノ教室 ピアノスタディ 7』ヤマハ音楽振興会, 1996, 34頁
[2]樋口隆一『バッハ➖️カラー版作曲家の生涯➖️』新潮社, 1987
[楽譜画像]
ヤマハピアノ教室
ピアノスタディ 7
著者 ヤマハ音楽振興会 編著
出版者 ヤマハ音楽振興会
出版年 1996.12.10 (初版)
大きさ、ページ 31cm, 71p
NDC -
https://www.instagram.com/p/C6lWHZSSRUH/?igsh=MWlhcHpwY2IwZ2U2bw==
(浅田ピアノ教室 浅田美鈴)